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静工電気科S30年卒 >> 記事詳細

2014/06/22

「あれから60年」

Tweet ThisSend to Facebook | by:サイト管理者
静工電気科昭和30年卒  海野昭彦
1955年3月、紅顔の美少年5名は県立静岡工業高等学校電気科を卒業した。
世の中は朝鮮戦争が終結し、第5福竜丸の被爆事件があり景気は非常に悪かつた。いわゆる鍋底景気と言われていた時代であつた。
 このため卒業はしたものの就職口は無い。担任の手島先生(ご健在)は5月、6月になっても毎月学校に「求人状況」を見に来るようにと我々に言われていた。皆それなりに苦しい時代だった。そんな中で何とか就職し希望に燃えて元気いっぱい働き始めた。しかし世の中はものすごい早さで動いて行く。真空管ラジオはトランジスターラジオとなり、テレビ放送も始まった。技術者の卵たちは、またまた技術革新の荒波にもまれて行く。しかし、質実剛健の校風にのっとりこれにも真向から立ち向かっていった。世の中の荒波が強ければ強いほど友情の絆は深まっていく。毎年5人そろって旅行に出かけたものだった。
 そんな中で職場の事や世の中の事、家族のことなど良く話し合った。特に労働組合の事は当事者として話題になることが多かった。しかし若い技術者達は世間の事に対しては、多く謙虚に謙虚に受け止めるのが常だった。
 時は止まってはくれない、時間は瞬く間に流れていった。仕事関係ではみな中堅技術者から一歩一歩その階段を上って行った。
 足立は昭和30年代にアメリカへ。楳田はこれまたロシアへ出張した。望月はテレビ局技術会社の役員となり、岡嵜は製紙会社で北海道から九州まで出張した。海野は北海道で活躍し動物写真で日本一になったこともある。皆が皆それぞれの道にがんばつて立派に生きた結果であることに間違いはない。忙しい中でも連絡は常に保たれ「行くぞ」といえばいつでも「オーヶー」と答える。そんなことが遠慮もなく60年も続いたのである。そして今、喜寿を迎えて5人揃って元気である。
 願わくば米寿、白寿と健康で迎えたいものである。静工精神は60年経っても身体の中にしっかりと住み着いているのだ。2万8千人の静工健児に幸多かれ!


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